アメリカのほほん手帖

アメリカ東海岸在住16年、暮らしの諸々について綴ります

たくましく生きるアジアの女性 in アメリカ

友人がかわいらしいペンダントをしていたので、「かわいいね!」と褒めたところ、彼女の友人が、経営していたジュエリー・ショップを閉めたばかりで、手元にまだ残っているジュエリーを安価に譲ってくれるから一緒に見に行かないかと誘ってくれた。そこで先日、その元ジュエリーショップ経営者Yさんのお宅にお邪魔した。このYさんは、近い内に自宅も売って、子供たちの住む街のもっと小さい家に引っ越す予定だそうで、ジュエリーも含む彼女にはもう不要となってしまう家の中の物を早く手放してしまいたいとのこと。ダイニングテーブルいっぱいに陳列されているのは、銀のアクセサリーが中心で、卸値で譲ってくれるとの話。そこまでアクセサリー好きとは言えない私だが、見ている内に、”あれもいい、これもいい”と、ついつい自分用とプレゼント用にいくつも選んでしまっていた(写真):

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シルバーと石のアクセサリー:一番外側のネックレスは石ではなくクリスタル

お店で売られている同様のアクセサリーに較べて、かなり値段が安いこともあったが、Yさんの誠実そうな人柄に惹かれて、何だかついついいくつも買ってしまった(ちょっと買い過ぎ?)。人やお店から物を買う時は、どんな人から、どんな店から買うのかは、やはり大事なポイントなのだなあとつくづく思う。

Yさんを紹介してくれた友人から後日聞いたのだが、このYさん、台湾出身で数十年前にアメリカへ移住。旦那さんが早くに他界され、女手一人でビジネスと子育てを切り盛りしてきた方らしい。穏やかな見た目からは想像もつかないが、異国でのビジネスと子育ては、決して容易ではなかったろう。しかし、仕事に区切りをつけてのリタイアメント・ライフ、これからは子供たちのそばで、ゆっくり第二の人生を楽しむのだろう。

アメリカで暮らしていて時々出会う、アジア出身の移民一世の女性達。遠いアジアからやって来て、アメリカという異文化の地で暮らすことになった女性同士ということで、ついつい親近感を抱いてしまう。そして、余り苦労も知らずに育ってきて、アメリカに来てからも、のほほんと暮らす私には、たくましく生きる彼女たちの姿は、励みにもなり良い刺激にもなるのである。

 

 

アパラチア山脈を歩いてみる:その① Apalachian Trail Hikingとは

その昔、学校の地理の授業で習った、アパラチア山脈(Apalachian Mountains)。カナダ南東部からアメリカ合衆国のアラバマ州にかけて、北アメリカ大陸の東側を走る全長2,400KM (1,500マイル)の長大な山脈で、その一部は、私が住むノースキャロライナ州の西側部分を通っている。

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Appalachian Mountains (Wikipediaより)

山があると登りたくなるのは人の常?、アパラチア山脈を貫くハイキング道を造るというアイデアが、Benton MacKayeという森林学者によって1921年に発案され、16年の歳月をかけて1937年に実際のハイキング・トレイルが誕生、その後も現在進行形で改良が続いているそうだ。これが、南はジョージア州のSpringer Mountainから、北はメイン州のMount Katahdinまで14の州にまたがって続く、全長3,500KM (2,200マイル)のアパラチアン・トレイルである。スルーハイキングと言って、全長3,500キロのコースを1シーズン中に全て踏破してしまうというスルー・ハイカーもいれば、最短記録の41日間で文字通り全長を駆け抜けたトレイル・ランナーもいるらしい。多くの人達は、トレイルの一部でのハイキングを楽しんだり(年間利用者400万人)、全長を何回かに分けて歩いたりと、その楽しみ方は様々である。

数年前から、このアパラチアン・トレイル全長を歩いてみたいという話を、夫と半分以上冗談のつもりで話していたのだが、ここ最近、健康の為に歩くことにこだわるようになって(下記の前回のブログ記事を参照ください)、このアパラチアン・トレイル・ハイキング全てを歩いてみるという考えが、現実味を帯びてきた。どうせ歩くのなら、大きな目標を持って、アメリカの一番の魅力でもある、大自然の中を歩いてみるというのはどうだろう?と、チャレンジ精神がむくむくと湧いてきたのである。もちろん我々の場合、仕事や子育てもあり、スルーハイキングではなく、何年もかけて3,500キロを歩くというプランとなる。

ということで、いきなりアパラチアンではなく、まずは、自宅から日帰りで行けるCrowders Mountain State Parkでトレーニングを開始、この秋から、少しづつアパラチアン・トレイル・ハイキングを開始することになった(さあ、どうなりますことやら。。。)。

 

carolina-blue.hatenablog.com

 

 

 

歩くことの大切さを痛感中

今年の6月、梅雨入り前の日本に一時帰国した。実家のある長崎、友人達に会うために訪れた福岡、そして、母や息子と旅行した京都、滞在期間の12日間、毎日毎日とにかくよく歩いた。普段歩き慣れていないせいか、一日の終わりにはかなり疲れを感じたが、それでも身体の調子はすこぶる良く、毎日元気だった。また、久しぶりに会う友人達の元気なこと!私と同世代、または一回り、二回り上の世代の友人、知人達が、皆生き生きとして若々しいのである。とにかく会う人、会う人、活動的で、日常的にいろいろなことをやっているという話をしてくれた。例えば、水泳、ヨガ、ハイキング、自転車、中には登山道を走るトレイルランをやっている強者も!もちろん、退職して悠々自適の人もいれば、仕事や家事や介護などがある人もいて、その合間を縫っての活動でもある。置かれた状況は様々だが、皆、日々楽しく身体を動かすことを怠っていないのだ。

翻って私は、ここアメリカの地方都市で、どこへ行くのにも車での生活を送っている。これではいけないと、できるだけ階段を使ったり、日常的にウォーキングをしたり、週に最低一度はジムにも通って運動をしている。以前、こちらの記事にも書いたが、身体を日常的に動かすことの大切さは、身に染みて理解し、ある程度実践しているつもりだった。 carolina-blue.hatenablog.com

 

しかしながら、アメリカへ戻ってきて思うところは、いくら気をつけて運動をしているとは言え、私の日常での活動量は、圧倒的に少ないのではないかということだ。やはり、車を使う生活というのが、まずはいけない。そして、便利な家電製品が増えてきて、家事に費やす労力も昔に比べたら、かなり減っている。食洗器、自動洗濯・乾燥機、床掃除はお掃除ロボット、また、ベッドなので、布団の上げ下ろしもない。それに加えて、仕事中は原則パソコンの前に座りっぱなし、通勤もハンドルの前に座っているだけ。少々運動しようと、きっと十分ではないのであろう。日本で会ってきた友人や知人の生活と私のアメリカでの生活との一番大きな違いは、何といっても日常的に歩いているか否かなのではないかと考える。運動としてのウォーキングではなく、普段、買物へ行く時、仕事へ行く時、遊びに行く時、日々、徒歩と公共交通機関を使う、その積み重ねが、活動量の違いとなっているのではないだろうか。もちろん他の要因もあるのだろうが、年齢を重ねてからのいきいき元気の素は、やはり身体を動かすこと、こまめに歩くことではないかと思うのである。

ということで、歩くことの大切さを痛感中の今日この頃である。車中心の生活はどうすることもできないので、とにかく、意識して、歩くこと(目標一日一万歩)、身体を動かすことを、日々積み重ねていこうと固く心の中で誓ったのである。

 

言葉の力:アメリカ流コミュニケーション

様々な人種・民族・宗教を背景とする人々が共存するアメリカ社会。育つ環境も、考え方も様々であるから、自分の考えていることは口に出して相手に伝えないと、他人には、まずはわかってもらえないというのが普通である。”言葉にしなくても、察してもらえる”ということは、まずない。

そのような社会背景があるせいか、アメリカ人は一般的に見ず知らずの人とも良く会話する(これまで14年間アメリカで暮らしてきた感想)。スーパーやいろんなお店のレジでも、挨拶から始まり、今日の調子はどう?みたいな会話を交わすことが多い。多数の人達が行き交う大きな空間、例えば、ショッピングモールや空港だと、只単に黙ってすれ違ったりするが、出会う人数も空間もある程度限られた場所で行き交った人達とは、何らかのコミュニケーションをとるケースが多いようだ。例えば、勤務先の事務所の入っているオフィスビルのエレベーター内でたまたま一緒になった見ず知らずの人とお天気の話をしたり、ウォーキング中にすれ違う人達とも”Hi!"と言い合うか、少なくとも目と目を合わせてにこっと微笑む等である。

そんな、アメリカ流コミュニケーションで、最近、粋な表現だなあと思ったものがある。ある日、勤務が終わってオフィスビルの外に出たら、雨が降りだしていた。一緒にいた同僚と、”あー雨だ。傘がないから、濡れちゃうね。”みたいな話をして歩いていたら、私達の後にビルから出てきた男性(知らない人)が、私達の会話に入ってきて、空を見上げながら、うれしそうに”Liquid Sunshine !!(水の日差し!)”と雨のことを表現した。その一言で、そこにいた全員微笑んで、気分がぱっと明るくなったのだが、言葉の力は面白い。たった一言で、いやな気分を払拭である。

 別の場面。とある木曜日に職場の休憩室で同僚と”週末までまだ後2日あるね~。”という話をしていたら、そこにやってきた別の同僚が、”We call a Thursday, 'a Friday Jr'." と、木曜日のことをみんなが待ちわびる金曜の一歩手前ってことで、金曜ジュニアと呼んでいると表現した。ここでまた、その場の雰囲気がなごむのである。小さい頃から、様々な場面で、背景もいろいろな他人とのコミュニケーションや自己表現を繰り返してきたアメリカ人の何気ない一言、結構流石!と思う表現も多い。ちょっと気の利いた一言を発することで、その場の緊張をといてしまうような感じである。

そういえば、アメリカでは金曜日のことをTGIF (Thank God It's Fridayの頭文字)と言って、週末前のウキウキ感を表現するが、ある日アメリカ人の同僚から、日本語ではTGIFのことを何と言うのかと尋ねられ、(今は日本では死語となっているかもしれないが、その昔流行っていた)”花金”ととりあえず教えたら、職場で金曜日にすれ違う度に、”Hanakin!!"を連発するようになった。きっとそれも、ちょっと毛色の違う日本人同僚(私)とのコミュニケーション円滑法なのであろう。”Hanakin"という言葉、アメリカの片隅で今も健在である!(^^)! 

 

『騎士団長殺し』を読んでみた

私は、村上春樹の本が好きで、これまで結構彼の本を読んできたし、『騎士団長殺し』は今度日本を訪ねる時に買って読もうと楽しみにしていた。アメリカの地方に暮らす身としては、そう簡単には日本の本が手に入らないので、読みたい日本語の本があってもすぐに読めないところがつらいところである。

そしたら、去年の11月に旅先(アメリカ国内)で立寄った本屋さんで、『騎士団長殺し』の英語版が出版されたばかりだったせいか(2018年10月)、店頭に山積みとなっていた。全681ページの長編である。これ全部英語で読むのはつらいなあと思いながらも、本屋さんの独特の雰囲気に包まれたせいか、これも出会いと買ってきてしまった。

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読み始めるまでに時間がかかったり、2018年に大ベストセラーとなっていた日本語の本を友人に借りて先に読んだりしている内に、ついつい時間が過ぎてしまったが、ようやく『Killing Commendatore』を読み終えた。

面白かった。彼の小説に良くあるように、音楽が物語の背景に流れているが、今回は、モーツァルトの”ドン・ジョヴァンニ”が重要な役割を担っていたし、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss) の”ばらの騎士(”Der Rosenkavalier")が何度か登場したり、シューベルトやモーツァルト等のクラッシック曲やブルース・スプリングスティーンの曲も織り込まれていた。物語を読み進める内に、そこに出てくる音楽を聴いているような気分になるのだ(オペラ ”ドン・ジョバンニ”も”ばらの騎士”も観たことがないので、いつか観てみなくては)。

第二次世界大戦中の悲劇が織り交ざりながら、現実世界ともう一つの別の世界が登場し、不思議な”穴”がその二つの世界をつなぐ役割を担う。主人公の画家と女子中学生Mariyeが体験する”Idea"や"Metaphor"の世界。子供の頃にはみんな垣間見ることのできる”別の世界”のことを、大人になると非現実なこととして、ほとんどの人は見(え)なくなってしまうが、この二人の登場人物は見る力を持っていた。"信じる”ことの大切さが語られ、未来への希望を示唆する内容で物語は閉じられているので、読み終えてほっとした。

また、不思議な”穴”とも関連して、本の中では”壁”の存在が語られ、ベルリンの壁や拘置所の壁が登場する。本来の壁の役割は人々を守ることなのだが、時折、人々を視覚的に、そして、精神的に圧倒する為に壁が利用されることもあると続く。この現在私が住む国の大統領も、壁を作ろうとして政治的な物議を醸しているが、確かに彼が作ろうとしている壁は、中の人々を守るというよりは、外の人達を視覚的に且つ精神的に拒絶する為のものなのだろう。

生臭い政治的な壁の話や様々な悲劇があちこちに存在している現実の世界だけれど、この本が語るように、”信じる”ことを忘れずに、自分の人生を歩いていかなくちゃなあと思った次第である。

 

 

 

 

2 CELLOS: 型破りな二人のチェリスト♬🎻

数日前、2 CELLOSという男性チェリスト二人組のコンサートへ行ってきた。自宅から片道2時間程の場所だったので、息子は学校を早退し(課外学習の為と親は心の中で勝手に理由を付けて。。。)、駆けつけた。数か月前にYouTubeを見ていて、2CELLOSのことを初めて知ったのだが、息子に映像を見せると、もちろん知っているとのこと。ポップスやロックの曲なども演奏する型破りな二人組のチェリストは、若者の間でも大人気らしい。公開されているYou Tubeの2CELLOS-OFFICIAL VIDEOも結構あり、メディアを使って 若者の心もがっちりつかんでいるようだ。例えば、こちらのVIDEO"I will wait"は1,200万ヒットを超えている:

www.youtube.com

 私の様なおばさんには、見た目も麗しい若き二人のチェリスト、ぜひ生で演奏を聴きたいと思ったら、結構近くの街にやって来るではないか!ということで、私も夫も仕事を休み、ちょっと観光気分で、生(なま) 2 CELLOSを体験してきたのである。コンサート会場は、通常クラッシックコンサートが開かれる様なコンサートホールではなく、バスケットボールの試合等もできる大きなアリーナだった。会場を埋める人達は、老若男女様々で、服装もカジュアル。どちらかというとロックコンサートの趣である。コンサート開始前は、ビールを飲んだり、スナックを食べたり。音楽が始まるとノリノリで身体を動かしながら自由に演奏を楽しんでいる。

 さて、二人のチェリスト、ルカ・スーリッチ(スロヴェニア生まれ)とステファン・ハウザー(クロアチア生まれ)について。1980年代に生まれた彼ら、チェリストとしては、それぞれ文句のつけどころのない輝かしい経歴の持ち主である。その二人がコンビを組んでチェロを演奏すると、1+1=2ではなく、何倍もの相乗効果があるようだ。しかも、クラッシック音楽の枠に捕らわれずに、色んなジャンルの音楽に挑戦し、曲によっては、ステージ上でチェロを担いで動き回ったり、客席にまで飛び込んできたり、クラッシック音楽と現代の音楽の垣根をひょいっと超えて、自由に行き来している。

彼らについての詳細は、こちら:www.sonymusic.co.jp

 しかし、素人のおばさんが思うには、クラッシック音楽を幼少の頃から学んで、その才能を開花させ、そこに留まらずに新たな世界を切り拓き、活躍する2 CELLOSの二人だが、その成長の元にあるのは、やはり、クラッシック音楽の基礎が身体の隅々にまで浸透しているからこそなのだろうということである。基礎と練習あってこその質の高い技術と観衆の心をつかむことのできるパフォーマンスなんだろうなあ。

それにしても、この2 CHELLOS、これからどういう風に成長していくのか、目が離せない♪

春の珍客:嘆きバトのひな

私が住むアメリカ南東部にも春到来。近所の家々の庭や道沿いでは、淡いピンク色の桜の花が(今はピークを過ぎてしまったが)、しばらくの間目を楽しませてくれていたし、陽射しも含めて目に飛び込む景色はカラフルである。

そんな春の我が家の裏庭に珍客到来、2匹の嘆きバトのひなである。

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嘆きバトのひな

ある日、芝刈り機の上に乗っている2匹を夫が見つけ、母鳥がいないので夫が代わりに餌をあげるようになり、芝刈り機のあった場所に木の箱を置いたら、そこが2匹のお気に入りの場所となったようである。

嘆きバトは、英語名"mourning dove"(”mourning”には悲嘆・哀悼等の意)で、鳴き声が悲しげな声に聞こえるところから、その名がつけられたそうである(まだ2匹の鳴き声は聞いていない)。北米に広く分布しており、私が住むこの辺りでも珍しくない鳥のようだ。下記に貼り付けたコトバンクの説明によると、”樹上に巣をつくり、2卵を生む”とあるので、母鳥が生んだ二つの卵は無事に孵って、みなしごとなってしまったのかもしれないが、現在スクスク成長中のようである。

kotobank.jp

この2匹のもう一つのお気に入りの場所ができたらしい。裏庭に置いてある夫の彫刻の上である。良く見ないと分りにくいのだが、彫刻の右から二番目の枝の上に2匹がとまっている(因みに彫刻のタイトルには、"Juniper" (セイヨウネズ)という樹の名前が付いている)。

芝刈り機や彫刻を根城にしながら、スクスク成長中の嘆きバトのひな達、その鳴き声を聴ける日を楽しみにしている私である。 

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Juniper by Charles Pilkey