アメリカのほほん手帖

アメリカ東海岸在住16年、暮らしの諸々について綴ります

飄々と日常を綴る詩人:石垣りんさん

私がブログを書き始めて約3か月半、これまで書いた文章の中で一番多くアクセスしていただいているのが、詩人の茨木のり子さんについて書いたこちらの文章である:

carolina-blue.hatenablog.com

彼女の紡ぎ出す言葉の数々は、世代を超えて、時代を超えて、様々な人の共感を呼ぶのであろう。言葉の持つ力はやはりすごいのである。彼女の言葉が今後も更に多くの人達の目に心に触れることを願ってしまう。

 

今日はもう一人、私の好きな詩人、石垣りんさんの詩について書いてみようと思う。自分の日常を飄々と綴る、石垣りんさんの詩は、ユーモアがあって、思わずにやりとしてしまうものも多い。例えば、私の好きな詩はこちら:

「表札」

自分の住むところには/自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊りする場所に/他人がかけてくれる表札は/いつもろくなことはない。

病院へ入院したら/病室の名札には石垣りん様と/様が付いた。

旅館に泊まっても/部屋の外に名前は出ないが/やがて焼場の鑵(かま)にはいると/とじた扉の上に/石垣りん殿と札が下がるだろう/そのとき私がこばめるか?

様も/殿も/付いてはいけない、

自分の住むところには/自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない/石垣りん/それでよい。 

(『石垣りん詩集』ハルキ文庫)

 他にも、「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」という詩も私のお気に入りだ:

「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」

それはながい間/私たち女のまえに/いつも置かれてあったもの、

自分の力にかなう/ほどよい大きさの鍋や/お米がぷつぷつとふくらんで/光り出すに都合のいい釜や/劫初からうけつがれた火のほてりの前には/母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

その人たちは/どれほどの愛や誠実の分量を/これらの器物にそそぎ入れたことだろう、ある時はそれが赤いにんじんだったり/くろい昆布だったり/たたきつぶされた魚だったり

台所では/いつも正確に朝昼晩への用意がなされ/用意のまえにはいつも幾たりかの/あたたかい膝や手が並んでいた。

 ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて/どうして女がいそいそと炊事など/繰り返せたろう?それはたゆみないいつくしみ/無意識なまでに日常化した奉仕の姿。

炊事が奇しくも分けられた/女の役目であったのは/不幸なこととは思われない、そのために知識や、世間での地位が/たちおくれたとしても/おそくはない/私たちの前にあるものは/鍋とお釜と、燃える火と

それらなつかしい器物の前で/お芋や、肉を料理するように/深い思いをこめて/政治や経済や文学も勉強しよう、

それはおごりや栄達のためでなく/全部が/人間のために供せられるように/全部が愛情の対象あって励むように。

(『石垣りん詩集』ハルキ文庫)

石垣りんさんは、1920年生まれで、私の祖母と同世代である。この詩を読むと、私は亡くなった祖母を思い出す。大正生まれのハイカラでいつも朗らかだった祖母も、きっといろんなことを考えながら台所で家族の為のご飯を準備していたのではないか、と。

今は、時代も変わり、台所はもはや女性専用の場所というのではなく、女性でも男性でも性別に関係なく、共に暮らす家族の為に食事の準備をする場所に段々となりつつあるのではないか(もちろん家庭によってその役割分担は様々だと思うが)。祖母の時代のように、お釜の前で長い時間をかけて調理をしなくとも、今は便利な調理器具もあれば、お店で簡単に手に入る食材やお惣菜も豊富にある。そして、鍋やお釜の前でなくとも、女性が”政治や経済や文学を勉強”できる世の中になった。

そう、昔に比べて、現代は、精神的にも肉体的にも自分の自由に使える思考の範囲や時間が多少は増えたのではないかと思うのだが、私自身に限って言えば、”精神の在り場所”にハタから表札をかけられてはいないか、或いは、自由な時間に”政治や経済や文学を”ちゃんと勉強しているのか、ということを考えると、ちょっと心もとなくなってしまう。石垣りんさんのように、しゃんと背筋を伸ばしてしっかりとした自己を持って、生きていきたいと願うのではあるが。。。